関係資料


コメディア・デラルテ commedia dell’arte

 イタリアの仮面即興劇。コメディア・デラルテとは〈職業俳優によって演じられる喜劇〉の意。arte は〈芸〉あるいは〈芸術〉とあやまって解釈されることがしばしばあるが,この場合は〈職業〉を意味している。つまり宮廷,貴族の館,教会,僧院などで,俳優を職業としない人たち(文人,貴族,聖職者)によって上演された演劇と区別するためにこの名称は生まれた。コメディア・デラルテの俳優は,主として軽業師や大道芸人の末裔(まつえい)であり,字の読めない者も多かった。俳優たちは教会からは破門されていたので,共同体の内部では生活することができなかった。彼らの演劇が,既成の戯曲にたよらない即興的な民衆劇であり,その公演の形態が非定住的な性格をもっていたのは当然である。コメディア・デラルテがヨーロッパ文化に残した最大の功績のひとつは,登場人物を類型化し,その仮面を創造したことであろう。アルレッキーノ,ブリゲーラ Brighella(道化),パンタローネ Pantalone(老人),ドットーレ Dottore(知識人),カピターノ Capitano(軍人)は,社会を構成する人間の基本的な類型を示している。このような登場人物がさまざまな即興的演技やせりふを組み合わせながら,簡単な筋書きだけをたよりに,一編の劇を作り上げたのである。

 この独特の形態をもつ演劇がいつごろイタリアに生まれたのかについては,いまだ不明な部分が多い。いちおう,1575年にジェロージという一座がリヨンで公演をした記録があるところから,16世紀後半にコメディア・デラルテは生まれたことになっているが,この時期はすでにその最盛期であったとも考えられている。すなわち,古代ローマの喜劇,中世の民衆芸能,カーニバルの見世物などの伝統のなかで形成されてきたコメディア・デラルテは,ルネサンスの世俗的な精神の開花とともに,イタリアでは広い地域にわたって活動をしはじめた。やがてそれが他のヨーロッパの国々に知られるところとなり,宮廷などからイタリア人の一座は招聘(しようへい)されるようになった。最近ではその起源をトルコ,あるいは中国の民衆芸術に求める説も現れている。

 発生期であったか最盛期であったかは別にしても,イタリア人俳優たちはこの新たなる演劇形式をたずさえて,16世紀から17世紀前半にかけてヨーロッパ各地を巡業した。なかでもフランスの宮廷が彼らを歓迎し,数多くの上演の機会を与えた。当時活躍した劇団としては,前述のジェロージ座,フェデーリ座,リウニーティ座などが知られている。イタリア人俳優たちは,1697年,時の国王ルイ14世によって国外退去を命ぜられるが,1世紀にわたる滞在のうちに,彼らはフランス文化に対してさまざまな刺激を与えた。1715年ルイ14世の死とともに,イタリア人俳優の演劇活動は再開され,イタリア座(コメディ・イタリエンヌ ComレdieItalienne)が設立されて再び隆盛を迎えたが,すでにコメディア・デラルテは極度にフランス化され,本来のイタリア的活力は失われた。1762年イタリア座はオペラ・コミック座に吸収され,イタリア人俳優の時代は終りを告げた。

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残酷演劇 ざんこくえんげき theatre de la cruaute

 フランスの詩人・演出家・俳優 A. アルトーによってもたらされた演劇理念。1920年に俳優としてデビューしたアルトーは,残酷演劇実践の試みであった《チェンチ一族》の上演失敗(1935)など,実際の舞台には成果は残さず,38年に出版された〈残酷演劇宣言〉(1932発表)を含む理論書《演劇とその分身 Le theatre et son double》によって,書物を通じて新しい演劇観を啓示し,のちの演劇に多大な影響を与えた。

 アルトーにとって演劇とはまず〈埋没する自己〉を再発見する手段であり,《NRF(新フランス評論)》誌編集長 J. リビエールあての手紙にあるように,舞台の演技は精神の存在証明の方法にほかならなかった。当時のヨーロッパの文化や美学が否定されるのは,それらが真の生との結びつきを失ってしまったからであり,自己の埋没した精神を再発見し,根元的な生とのつながりを取り戻すためには,〈生から離れるのではなく,生に結びつく〉始原的な演劇をよりどころに文化革命を達成し,生の感覚を再び自分のものにしなければならない。その根元にある生との関係における厳密さと必然としての〈残酷〉を恐れぬ,〈ペストと同じように黒い力の勝利である〉演劇こそが,アルトーのいう残酷演劇なのであった。それは従来の娯楽や芸術のための演劇ではなく,物,感情,肉体,運動などとの生々しい関係を失った,力のない〈ことば〉による論理的な叙述や心理描写を排して,言語が元来もつ呪術的・魔術的な力を用い,観客の全存在に訴えて,その変革を迫ろうとする試みである。アルトーのこの用語はしばしば誤解されるのだが,〈残酷〉とは肉体的暴力とはまったく関係がない。むしろ演出の優位を保ち,照明,音楽,小道具などのあらゆる手段と俳優の身ぶりや叫びを巧妙に併せて,肉体的=物理的に舞台空間を埋めることで,舞台と客席の区別を排しながら演劇を魔術的儀式の陶酔へと導くことを目的とする。このような残酷演劇の理論は,詩的直観による発想であり,その完璧な実現はほとんど不可能であるが,J. L. バロー,P. バイス,F. アラバル,P. ブルック,また,J. ベックのリビング・シアターなど,現代の代表的な演劇人や50年代,60年代を中心とするいわゆる前衛劇運動に大きな影響を残している。

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不条理劇 ふじょうりげき theatre of the absurd

 1950年代のフランスを中心として興った前衛劇。代表的な劇作家にパリで活躍したイヨネスコ,ベケット,アダモフ,ジュネがおり,その影響を受けたイギリスのピンター,アメリカのオールビー,ドイツのグラス,ポーランドのムロジェクなどの作品が含まれる。この名称を一般化したのはマーティン・エスリンの著者《不条理の演劇》(1961)であり,それによると不条理の演劇は世界における人間の条件の不条理性を舞台に如実に提示するものである。演劇,とくに悲劇は古代ギリシア以来,人智を超えた宿命に翻弄される英雄を通して世界における人間のあり方を問いかけてきたが,それは観客に理解し得るなんらかの因果関係や価値観を前提としていた。しかし,この前提が20世紀に入るとしだいに崩れ始め,舞台は人間の行為の無償性と世界の無意味をあらわす場になった。1940年代の実存主義的な状況の演劇はその頂点であり,サルトルの《蠅》(1943),《出口なし》(1944)やカミュの《誤解》(1944),《カリギュラ》(1945)やアヌイの《アンティゴーヌ》(1944)などを生んだ。だがこれらの演劇は形式上は伝統的で明晰な論理と流麗な言語と緊密な劇作法とによって観客の同意を得ようとする思想劇,つまりは,不条理についての条理をつくした演劇だった。それにひきかえ,50年代の前衛劇は世界の不条理を舞台上の不条理に置きかえて提示する。たとえばイヨネスコの《禿の女歌手 La cantatrice chauve》(1950)では日常的な会話の意味がしだいに失われ,文章,語,シラブルの間の論理的・文法的つながりが次々と欠落して言語が解体し登場人物が母音のみを叫び合うに至る過程が示され,ベケットの《ゴドーを待ちながら En attendant Godot》(1953)では登場人物がいつまでも来そうもなく,誰ともわからない人物をなぜかわからないまま待ち続ける間の暇つぶしの無意味なお喋りと遊びが延々と続くだけで終わる。すなわち,観客の目前で不条理な内容が不条理に演ぜられるのがこれらの演劇の特徴であるといえよう。

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