わたしが学院を出た理由


 ぽつぽつとアイネが語るのを聞きながら、俺はなぜ彼女がそんな話をするのかわからなかった。そのことを尋ねようとして……なぜか尋ねられなかった。二人の間に沈黙が流れ、そうして俺たちはしばらく黙ったまま夕暮れの道を歩いた。

「……前に聞かれたことだけど」

 沈黙を破ったのはアイネの方だった。そう前置きして、彼女は静かにその話をはじめた。

「わたしが学院を出た理由。少し長くなるけど……聞きたい?」

 ――それはもうずっと前に俺が彼女に尋ね、保留になっていた質問だった。アイネがエスカレーターを降りてうちの大学に来た理由。二人の分かれ道までにはまだだいぶ距離がある。それを確認して、俺は「聞きたい」と言った。その答えにアイネは小さく頷き、語りはじめた。

「知っての通りあそこは中高一貫のお嬢様学校で、中にいたのもやっぱりそういう子たちだった。わかると思うけど、わたしはそういう柄じゃないから、ずっと出ようかなと思ってはいたの。そう言ってリカに誘われていたこともあった。あの子はわたしよりはっきりしていて、高校にあがるころにはあと三年で出るって、まわりにそうふれまわってたから」

「……なるほど」

 何となくわかる話だった。学院は完全無菌の淑女養成が売り文句で、全寮制ということはもとより塀の上に槍の穂まで立っている。口の悪い連中は『収容所』と呼んではばからないし、実際に俺も何度かその名で呼んだことがある。そんなところにリカやアイネがいたのでは、それは息苦しくもなるだろう。

「……でもね。高二の冬までわたしは決心がつかなかった。親はそのまま行ってほしいようだったし、学院にはリカの他にも友だちいたから。大学――学院の大学だけど、そこに演劇部があって、先輩から誘われてたってこともある。うち出た子はみんなそこに入ったから。わたしもあのまま行ったら、当然そこに入ってたと思う」

 それもわかる話だった。学院には大学から入る人も少なからずいるが、そういう手合いはエスカレーター組に比べて肩身の狭い思いをするらしい。言う人に言わせれば、学院を出るということは中学からの十年間を塀の中で過ごすということであり、それは彼女たちの親にとって――そして一部の彼女たち本人にとって、生涯を通して誇れるステータスになるということなのだそうだ。

「でも、結局わたしはそうしなかった。高二の冬に決定的な事件があって、それでわたしは学院を出ることにしたの。親には反対されたし……リカ以外の友だちには泣かれたけど、もうわたしはそうするしかなかった」

 事件という言葉を口にするとき、アイネの唇が少し震えたように見えた。本当に大事なことを話すとき彼女の唇は震える。……俺は黙って話の続きを待った。

「その事件について話す前に説明しておくとね、あそこは名前だけじゃなくて、ちゃんとした学院なの。朝夕には神父様の説教があるし、日曜には教会でミサまであげる。もっともほとんどの子はそういうのをお仕事だと思ってて、真面目にやってる子はあまりいないけど。もちろんわたしもリカもその口だった。聖書は純粋に倫理の教科書と考えてたし、聖歌は単なるクラシック音楽で、ミサはちょっと優越感に浸れる、よそにはない学校行事だった」

「でもね、ちゃんといるの。そういうのを信じてる子はちゃんといた。ほんの一握りだけどね。そういう子はミサとかのとき目の色が違うからすぐわかるの。聖体拝領……って言うのは、パンを主(しゅ)の身体の一部だっていって神父様からいただく儀式なんだけど、そのときも本当に恭しい手つきでパンを受けとるから、よく見てればすぐそれとわかる。二十人に一人くらい信じてる子はいた。そのくらいいてもおかしくないでしょ。本来はそういう学校なんだから」

「それで、わたしたちのような信じてない子がそういう信じてる子たちをどう見てたかっていうと、別に普通の目で見てた。それだけでそういう子たちを特別な目で見ることはなかった。朝夕、週末にと、神様の話は飽きるほど聞いてたから、信じてる子たちもお腹いっぱいみたいで普段はそういうこと口に出さなかったし。……逆に、親切で優しい子が多かったの、信じてる子には。だから自分とは違うってどこかで思っていても、そんなのは心にしまっておいた」

「高二のときのルームメイトが、そういう子だったの。ちゃんと神様を信じてる子。寮は三人部屋だったけど、みんながみんなそうじゃなくて二人部屋も幾つかあった。高二になってからわたしはその子と二人で一年間同じ部屋で寝起きしてた。高一のときはリカと同じ部屋で、別れるとき結構つらかったから最初は違和感あったけど、そのルームメイトの子はすごく親切でいい子だったから、梅雨が明ける頃にはすっかり馴染んでた」

「その子は本当に親切だった。部屋の掃除はわたしの分までやってくれるし、何か頼み事しても嫌な顔ひとつせず引き受けてくれた。勉強もよくしてて成績もよかったから、わからないところを教えてもらったりもした。だからクリスマスの準備でちょっと無理してわたしが熱出したとき、その子が遅くまでつきっきりで看病してくれたのも、そんなに特別なことじゃなかったの」

「わたしは風邪を滅多に引かないんだけど、引くときはわりとひどくなる方で、そのときも熱があがって四十度近くになった。四十度も出るともう立ちあがれないし、意識は朦朧として言葉もうまく出てこない。そんなわたしの額にその子は氷水でタオルを絞ってあてて、絞ってあてて……そんなことを何度も繰り返してくれた。水が飲みたいって言えば持ってきてくれて、明かりが眩しいって言えば豆電球にしてくれた。その豆電球のしたでも、その子はずっとわたしの看病をしてくれた」

「そのときわたしはふらふらだったけど、もう何時かわからないのにずっと看病させるてるのは申し訳なかったし、このままじゃ風邪をうつしちゃうと思ったから、その子に『もう眠って』って言ったの。そうしたらその子は、『アイネちゃんは心配しなくていいよ。私は大丈夫だから』って、そう言ってくれた。『アイネちゃんが眠るまで、私はずっと起きてるから』って」

「でもその言葉は嘘だったの。ううん……嘘じゃない。でも眠るまでじゃなくて、眠ったあともその子は起きて看病を続ける。わたしが眠ったら、そのまま朝まででも看病を続ける。それがわたしにはわかった。そういう子だったから。それでもわたしが眠ったら少しは休んでくれるかも知れないと思って眠ろうと頑張ったんだけど、熱が高かったからなかなか眠れなくて、『わたしは眠れそうにないから先に眠って』って言ったの。その子はしばらく黙ったあと、『眠れないほどつらいの?』って聞いてきた。『眠れないほどつらい』ってわたしは答えた。その子に嘘はつけなかったから。どんな嘘でも」

「そうしたらその子は、『お祈りをさせてもらっていい?』って言った。ほんの少し驚いたけど、信じてる子がこういうときお祈りをするのは普通だと思ったから、『お願い』ってわたしは答えた。その子はわたしの額からタオルを取って、その代わりに自分の掌をそこにあてて……それから聞き取れないほど小さな声でお祈りをはじめたの」

「豆電球の明かりだけだったし、額にのせられた手が半分目を覆ってたから、その子がどんな顔でお祈りをしてたのかわからなかった。ただ額にのせられた手はひんやりと冷たくて、それにその子の温もりみたいなものが伝わってくるような気がしてタオルより気持ちよかった。その子がお祈りをどれだけ続けてたのかわからない。すごく長かったことだけ覚えてる。三十分か、あるいはもっとその子はわたしの額に手をあててお祈りを続けていたと思う」

「ようやくお祈りが終わったとき、その子は闇の中にもはっきりわかるその目でじっとわたしを見つめた。信じてる子がミサとかのときにするその目で。そうして『どう? 少し楽になった?』って聞いてきた。すごく気遣わしげに、心配そうな表情で。『うん、少し楽になった気がする』ってわたしは答えた。そう答えるしかなかったから。そうしたらね、その子は泣いちゃった。『嬉しい』って言って。『アイネちゃんの具合がよくなって嬉しい』って、そう言って」

「そのときは本当に意識が朦朧としていたから、どうしてその子が泣いたのかわからなかった。でも朝になって熱がだいぶ下がってからそのことを思い出して、わたしはもうここにはいられないと思った。……その子のことを変に思ったわけじゃないの。その子のことは今でも好き。けどその事件があってからわたしはもう学院に――朝夕の説教や週末のミサに、それまでのような態度をとり続けることはできなかった。その子のように信じるか、そこを出るしかなかった。……だからわたしは高校までで学院を出たの」

「それが、わたしが学院を出た理由。……でもこのことは誰にも話さないで。誰にも話さないって約束して。今日ここで話すまで、このことは誰にも話してないから。リカにも。もし万が一その子に伝わったら、それはハイジのせいだから」

「……約束する、誰にも話さない」

 肩にどっと重い荷物を載せられた気がした。だがそれほど悪い気はしなかった。きっとアイネは今日までこの荷物を一人で背負ってきたのだろう。その荷物を半分持てと言ってくれたことは、年来の相棒として何とはなしに嬉しかった。

「生涯、誰にも話さない」

 もう一度声に出して誓った。文字通り墓場まで持っていく決意を固めた。こんな話を打ち明けられて誰かにもらしたらその時点で人間失格になる。そのくらいのことは俺にもよくわかった。それにしてもアイネがこんなに長く喋るのは珍しい。ことによると会ってからはじめてかもしれない。……なぜ彼女が今ここでこんな話をしたのか、俺はそれが少し気になった。

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