リカちゃんと勉強してる?


 とっくに授業が始まっているはずの時間だったが、教室の中はひどくざわついていた。黒板の前はもぬけの殻だ。リカはいつも通り最後尾の席に座り、指の上でシャーペンをくるくると回していた。

「まだ教授来てないのか?」

「見ればわかるでしょ。どこにいるのよ」

「小テストを取りに帰ったとか」

「いきなり来といて不吉なこと言わないで。本当にそうなったらハイジ君のせいだからね」

「あのな。劇団と関係ないところでその名を出すなって言ってるだろ」

「どうして? ハイジ君。何か問題でも? ハイジ君。アイネはいつもそう呼んでるのに贔屓ですか? ハイジ君」

「……わかったから。もうそれでいいから」

「わあ嬉しい。これで今日から気兼ねなくハイジ君のことをハイジ君と呼べるのね」

「リカの口から『気兼ね』なんて言葉を聞く日が来るとは思わなかった」

「何言ってるの。私から『気兼ね』という言葉を抜いたら何も残らないよ?」

「ああ、そう。そりゃ結構」

 元々ハイジという名前が気に入らないこともあるが、劇団外の人間からコードで呼ばれるのはおぞましいものがある。こういうときアイネやキリコさんのように、愛称がそのままコードに採用された人のことを心から羨ましく思う。

 だがまあ、今となっては受け容れるより他ない。ヒステリカの関係者にとって俺はハイジであり、それ以外の誰でもない。俺が結婚するとき連中はみな『ハイジが結婚する』と言って騒ぐだろうし、死んだら死んだで『ハイジが死んだ』と言って泣くのだ。俺はこのハイジという冗談のような名前から生涯逃れられない運命なのだ。

「で、ハイジ君は今朝もアイネと仲良くお芝居の稽古?」

「そうですが、何か?」

「いいえ、何でも。ただもう夏だな、って」

「夏がどうかしたのか」

「第一問。夏といえば?」

「かき氷」

「惜しい。正解は海です。夏といえば海。では第二問。海といえば?」

「山」

「不正解。海といえばそう、水着! 水着に決まってるじゃないですか。この夏はアイネの悩殺ボディ拝みまくりでしょ? 夜はあれを縦にしたり横にしたりですか? いやあ、いいなあハイジ君は。このこの」

 一瞬脳裏に浮かんだ悩ましい映像を追い払い、否定の意味をこめて俺は小さく鼻を鳴らした。

「あのな、どうして俺がアイネと海になんぞ行かなきゃならんのだ」

「またそんなこと言って。お姉さんは誤魔化されませんよ?」

「誤魔化してなんかいないっての」

「てゆうかさ、ぶっちゃけそのへんどうなのよ?」

 そう言ってリカは耳に手をかざしてこちらに近づけてくる。俺はそれにのった振りをして顔を寄せ、唇をすぼめてふっ、と息を吹いた。

「あんっ!」

 リカの甘い声が響き、教室の面々が一斉にこちらを振り向いた。

「ばか、変な声出すな。恥ずかしいやつだな」

「何よ。変な声出させるようなことしたの、そっちじゃないの。もう怒ったからね。アイネにこのこと、言いつけてやるんだから」

「好きにしてくれ。俺は一向に構わん」

 小声での応酬を続けるうちに教室は元に戻っていた。元よりどれも知らない顔だが、さすがに今の遣り取りは恥ずかしかった。こんなことをしていては、俺とリカの間にあらぬ噂が立ちかねない。そんな俺の思いをよそに、リカは幾分真摯な口調で、「本当に何もないの?」と問いかけてきた。

「だから、何がだよ」

「アイネのこと」

「ああ、天地神明に誓って何もない。あいつと俺の間に演劇のこと以外、何もあるはずがない」

「……向こうはそう思ってないだろうけどね」

「何か言ったか?」

「いいえ、何も。それならあれ? ハイジ君はあの美人の先輩とつきあってるの? それとも一年生の可愛い子?」

 興味津々といった感じで身を乗り出して尋ねてくるリカにいい加減うざったさを覚えた。悪気がないことはわかっているのだが、そのぶん余計に質が悪い。

「前にも言ったと思うけどな、うちは団内の恋愛は御法度なの。そういう関係になったら揃って追放されるの。わかる?」

 記憶に間違いがなければ、リカには都合三回この話をした。そのたびに彼女は「はいはい」と適当な相づちを打ちながら聞き流していた。だが今回、リカは流そうとも茶化そうともせず、憐れむような目つきでじっと俺を見つめてきた。

「何だよ。何かおかしいのか?」

「おかしい。まだ律儀に守ってるの? あんな陳腐な規則」

「うちにはうちの事情というものがある。よそ様にとやかく言われたくないな」

「へえ、よそ様ですか。それじゃ日曜日は大変だなあ。私の代わりに誰がやるのかなあ、衣装の裏方」

 「ぐっ……」と呻いて俺は詰まった。軽率な発言だった。今度の公演にリカは裏方として協力してくれることになっている。「裏方も舞台の一部」とは隊長の口癖だが、裏方なくして舞台が成り立たないことは厳然たる事実である。そのように考えれば、公演に向かう今このときにおいて、リカもまた『ヒステリカ』の一員に間違いないのだ。

「……取り消すよ。でも規則については悪く言わないでくれ。あれはあれで有効に機能してるんだ」

「別に悪くなんて言ってないよ。普通じゃないと思ってるだけ」

「普通じゃないかな、やっぱり」

「うん、普通じゃない。あんな時間的に密なところにうら若い健全な男女を押しこんで、それで恋愛するなだなんて、そんなの異常に決まってるでしょ」

「まあ、そう言われりゃそうかも知れないけどな……」

 俺は口ではそう返した。だが本当は言われるまでもない。そんなことはこっちの方が遙かに強く思っている。

 即興劇団『ヒステリカ』規則第一条、団内の恋愛を固く禁ずる。右に違反した者は即刻退団。規則、以上。

 初めて聞かされたときの衝撃は未だ胸に残っている。それがリカの言うように異常な規則であることも――ただでさえ特殊なことをやっているうちの過疎に拍車をかけていることもわかりすぎるほどわかっている。……いつかは改めることになるだろう。俺が隊長を襲名して最初にする仕事がそれになるかも知れない。だがとりあえず、今ここでそれをどうこうできないのもはっきりしているのだ。

「第一、そんな規則も破れないような思いじゃね……」

「何か言ったか?」

「さあ、幻聴でしょ。……ねえハイジ君、そういうことなら紹介しようか?」

「ん? 何を?」

 俺の悩みを酌んだのかリカは浮ついた笑顔に戻り、気安い口調で話しかけてきた。

「恋人に決まってるじゃありませんか。要するにハイジ君は今、フリーってことなんでしょ?」

「まあ、フリーと言えばフリーだけど」

「実はですね、ハイジ君の演技を観てときめいてしまった子が知りあいにいるんですよ。これがなかなか可愛い子でして」

「へえ、そりゃ光栄だな。女の可愛いほどあてにできないものはないけど」

「あてにしてくれていいよ。本当に可愛いから。で、どうよ? ハイジ君さえよければセッティングするよ? 向こうからも頼まれてるし」

 なかなか魅力的な話だった。俺の演技を観て興味を持ってくれたというのは物語的には申し分ないし、過去の経験からしてリカの可愛いはそれなりにあてになる。恋人いない歴も記録を更新中である。ありがたく厚意を受けたい気持ちは山々なのだが――

「やっぱ遠慮しとくよ。その子には謝っておいて」

「どうして? 私の紹介だと不安?」

「そんなことない。嬉しいよ、素直に。でもどうせ長続きしないんだ」

「演劇があるから、ってこと?」

「そういうことになるな。今の隊長がいるだろ? あの人もうすぐ辞めるんだけど、今度は俺が隊長になるんだよ。そうしたらいよいよ忙しくなる。朝から晩まで劇団のために走りまわって、恋人がいてもろくに構ってやれない。だからまあ、演劇に深い理解がある人じゃないと長続きしない」

「ふうん。そうか」

 リカは残念そうに溜息をついて机の上に頬杖をついた。教室からは人が立ち退き始めている。休講なら休講と予め言ってくれればいいのだが、事前の掲示もなしに授業が休みになるのは、そう珍しいことでもない。

「それなら、駄目じゃん」

「ん?」

「劇団内は規則で駄目。劇団外でも駄目。いつまで経っても恋人できないよ? ハイジ君」

「……そうだな。駄目だよな」

 そう返すしかない。俺にはいつまで経っても恋人はできないだろう。それを恨む気持ちがないわけではないが、恋愛はしなくとも充実した日々は送っているわけで、それはそれでまあいいのか、と悟りとも諦めともつかない心境で俺は生きている。

「そんならさ、私が立候補してもいい?」

「ん?」

「ハイジ君の恋人」

「嫌だ」

「うわ、瞬殺」

「というか、あいつと兄弟になるのだけはご免だ」

「そっか。あーあ、振られちゃった」

 リカはそう言って大きく一つ伸びをすると、傍らに置かれた鞄を手に立ち上がった。

「帰るのか。一緒に昼でもどうだ? 今なら学食すいてると思うし」

「振っといて優しくするのは、どうかと思うよ?」

 最後に一度だけ振り返り、なぜか少しだけ寂しげな笑顔を残してリカは教室を出ていった。

BACK