気になる隊長の妹


 ――立ち上がりそう叫んだあと、俺は我に返った。向かいのベンチで昼寝をしていた男が半身を起こし、苛立たしげにこちらを睨んでいた。俺は軽く頭を下げ、頭を掻きながら座り直した。

 ……どうやら昨夜のあれは幻で間違いないようだ。こんな白昼夢を見るなんてどうかしている。俺は疲れているのだろう。練習までまだ時間はあるし、小屋に戻って昼寝でもしようか……。

 そう思い頭をあげた視界の隅に、ぱっと目を引く鮮やかな色が入った。艶やかな着物に身を包んだ少女――いつか見た隊長の妹が日溜まりの中を歩いているのが見えた。声をかけようか迷っていると、向こうの方で俺に気がついたらしく、優雅な物腰で真っ直ぐこちらに歩いてきた。

「ここにいらしたんですか、お兄様」

 ……俺の前に立った彼女は、晴れやかな笑顔でそう言った。もちろん、俺は固まった。聞き違えたのだと思った。だがそんな俺に追い打ちをかけるように、彼女は不思議そうな顔をして、「どうしたんですか? お兄様」と言った。

「目が……悪いとか?」

「目? 私の目ですか? いいえ、悪くなんてないですよ。両目とも野生の獣なみです」

「へ……へえ。そうなのか。それは凄いな」

 小首を傾げて、まだ硬直している俺を眺めたあと、彼女はごく自然に俺の隣に腰をおろした。そしてまた親しみを感じさせる笑顔をこちらに向けた。

 眼鏡のかけ忘れとか、そういうことでもないようだった。それを確認して混乱はさらに深まった。……隊長のことを尊敬はしている。だがあの特異な風貌には常々疑問を感じていたわけで、あれと間違えられるというのは強い衝撃であり――言葉は悪いが屈辱ですらあった。

「どこをどう見れば俺を……お兄さんと間違えたりするんだろうな」

「何言ってるんですか。私がどうしてお兄様を別の方と間違えたりするんですか? 実際こうしてお兄様は――じゃなかった」

 そこで彼女はしまったという顔をして手を口に当てた。端正な顔が見る見るうちに真っ赤に染まっていった。

「ああっ! 間違えました! ごめんなさい! ごめんなさい! どうか今のは無しにしてください! お願いします!」

 紅潮が臨界に達したところで彼女はいきなりそう捲し立てた。昼寝をしていた男がまた飛び起きるのが視界の端に映った。

「こ……声がでかいって」

「本当に! 早とちりしただけなんです! 全然そんなつもりはなかったんです! ですからどうか今のは無しに!」

「わかった……わかったから」

 俺は彼女の傍まで寄り、ほとんど手で口を塞ぐようにして必死に勢いを止めた。その甲斐もあってか、彼女はすぐに落ち着きを取り戻し、幼い子供のような上目遣いで「本当に無しにしてくれます?」と言った。

「……ああ、無しにする。約束するから」

「絶対ですよ? 約束しましたからね?」

 そう言って右手の小指を差し出してくる。何て古風なことを……。そう思いながらも俺は同じように右手の小指を差し出し、驚くほど細くしなやかな彼女の指と絡めた。

「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます、指切った」

 もう半分忘れかけていたフレーズを共に口ずさんで指を離した。そこで彼女は気持ちを切り換えたのか、最初の笑顔でまたにっこりと微笑みかけてきた。

「これでもう問題ありませんね」

「ああ。もう何の問題もないな」

 どういった基準で俺を隊長と取り違えたのか聞いてみたい気はしたが、やはり止めておいた。もうあれはなかったと指切りをしたから、あれはなかったことなのだ。それに、風貌に関して隊長と似たところを実の妹の口から克明に告げられるというのも……それはそれで恐ろしい。

「ハイジさん……でよろしかったですか?」

「え? あ、はい。そうだけど」

 そう言ってしまってすぐ本名を言えば良かったと後悔したが、まあいいと思い敢えて訂正はしなかった。ハイジの名はこの前の用事とかのあとで隊長が教えたということなのだろうか。コードとはいえ一度しか顔を合わせていないのにちゃんと覚えてくれていたのは、正直、少し嬉しかった。

「隊長の妹さん――は、名前なんていうの?」

「私ですか? 私はクララです」

「ク……」

 思わず絶句した。またしても聞き違えたのかと思った。

「……クララ?」

「はい。クララです。よろしくお願いします」

 そう言って彼女は慇懃に一礼した。からかわれているのかとも思ったが、彼女の目はどうもそうは言っていなかった。……コードということなのだろうか。団員にはその名を使えと隊長に言い含められたということならわかる。しかしクララとは……。あの隊長のネーミングにしてはなかなか気が利いている。

「ペーターがここにいればな」

「え? 誰ですかそれ」

「いや、何でもない。クララね。もう覚えた」

「はい。クララと呼び捨ててもらって構いません。私はハイジさんと呼びますね、ハイジさん」

 そう言ってクララはまた笑って見せた。こうして会話するのは初めてだというのに屈託がない。一昨日、交流会館に隊長を呼びに来たときはずいぶんと冷たい印象があったが、やはりあのときは緊急の用事とやらで急いでいたということなのだろうか。

 ベンチに並んで座る俺たちを道行く人々がちらちらと横目に見ていく。理由は言うまでもない。白地に赤い椿をあしらった袖が短い着物は、詳しくは知らないが小袖と呼ばれるものだろうか。服装に頓着しない朴念仁の多いこの大学構内において、隣に座る少女はいかにも艶やか過ぎる。

「クララは、ここの学生?」

「いいえ、違います」

「だろうと思ったけどな。今まで見なかったし。なら普段は何やってる人なの?」

「普段はお父様……いえ、お兄様のお手伝いをさせてもらってます」

「隊長の? 何の手伝い?」

「済みません。それはお兄様に口止めされていますので……」

 そう言ってクララは申し訳なさそうな顔をした。隊長の謎に迫る良い機会だと思ったのだが、そういうことなら仕方ない。あの人も聞かれたくないようなことを言っていたし詮索は慎むべきだろう。俺は彼女自身のことに話題を移すことにした。

「敬語使ってくれてるけど、普通にため口でいいよ。隊長の妹さんってことは、歳も同じくらいだと思うし」

「そんなことできません。目上の方ですし、それに私はお兄様よりはずっと年下ですよ?」

「……そのあたりは見ればわかるよ」

 話し始めたときからそうだったが、いまいち会話が噛み合っていない気がする。俺と同じくらいかと言ったのに隊長を引き合いに出すことはないだろう。抜けているというのではないが、少し変わった子なのかも知れない。あの隊長にしてこの妹ありといったところか――などと少し失礼なことを考えた。

「それにしても、隊長から妹だって聞かされたときは驚いた」

「え? どうしてですか?」

「顔とか全然似てないから」

「それはそうでしょうね。母親が違いますし」

「げ……やっぱそうなのか」

「はい。でもお兄様は、私にとってたった一人のお兄様ですよ?」

 隊長が言い渋った理由がよくわかった。そんな理由があるなら無理はない。これ以上踏みこんではならないと思った。俺は急いで別の話題を探した。

「クララはここの学生じゃないんだよね」

「はい。違いますよ?」

「それなら今日はどうしてここに?」

「……そうですね。名残を惜しむためでしょうか」

「え?」

 クララの表情がわずかに憂いを帯びた。穏やかな夏の風が黒髪をそっと揺らしていった。

「もうすぐここにも来られなくなりますから」

「それは……どこかに引っ越すということ?」

「はい。そんな感じになります」

 腑に落ちるところがあった。彼女は隊長の手伝いをしているという。その彼女が引っ越すということは……つまり、そういうことだ。隊長が今回の舞台で引退する理由も、その辺にあるのかも知れない。引退したあとも隊長はヒステリカに顔を出してくれるものと高をくくっていたから、クララの話は俺にとってショックだった。

「そうか……残念だな」

「え? 何がですか?」

「隊長が引っ越すのが残念。あ、いや……クララもだけど」

「残念なんてことありません。いつでも会えますよ」

「そういうわけにもいかないだろ。……そうだ。今度の舞台は観に来てくれる?」

「いえ、観るというか、それには参加しますから」

「参加……!?」

「え? あ、はい……裏方で」

「裏方って……何の?」

「そ……その、メイク」

 そう言ってクララはまた上目遣いで見つめてくる。メイクの裏方……。メイクに裏方がいるのだろうか。今回の舞台で途中でメイクを変更するような演出はないから最初だけだ。ドーランを塗って、アイシャドウ、ハイライト、ローライト……それで終わりだ。俺のメイクに補助など必要ない。ひょっとしてアイネたちには必要なのだろうか? 控え室はいつも別だから、そちらの事情まではわからない。しかし――

「月曜日が裏方の会議だったんだけどな。出席してなかったけど、隊長から聞いてなかった?」

「それが……その、急に頼まれたんです。お……お兄様に」

「なるほど」

 そういうことなら何か新しい展開が持ちあがったのかも知れない。メイク補助が必要なものというと想像がつかないが、隊長のことだからまず間違いはないだろう。

 そこまで考えて、俺は隣に座る少女に向かい右手を差し出した。

「どうかよろしく。一緒に頑張って、いい舞台にしよう」

「え? は……はい!」

 俺の差し出した右手を、クララは両手で握りしめた。その慌てた様子が可笑しくて笑いそうになったが、もちろん笑わなかった。彼女と一緒に作る舞台は、これが最初で最後。文字通り一期一会の舞台だ。その大切な舞台をおろそかにはすまいと、彼女と握手しながら俺は強く心に刻んだ。

「おやあ? これはこれは」

 聞き慣れた声が感動のシーンに水を差した。DJだった。

「DJかよ。何の用だ?」

 と、俺は言ったが、DJはそれには応えず、それまで繋がれていた俺の手をむしりとるようにしてクララの手を握った。

「はじめまして……ではありませんね。ですがお言葉を交わすのはこれが初めて。どうかお見知りおきを。私はDJという者です。わけあって本名は申せませんがお兄さんなどはそう呼んでくれています。ラジオのDJをやっているんです。小さな局ですが、やる気と生き甲斐を感じています」

「え……? あ、は……はい」

「そういうのは秘密にしておくのが粋だとか言ってなかったか、おまえ」

 そんな俺の指摘を無視し、DJはクララの手を握ったままいよいよ光り輝く目で彼女を見つめた。

「お嬢さん、御名前は?」

「ク……クララです」

「クララ! 素晴らしい名前だ……。可憐で、それでいて気品がある。花のように美しいあなたのすべてを、その名前が表しているようだ」

 聞いているこっちが赤面するような台詞を大真面目な顔でDJは口にする。だいたいこいつはクララという名前に何の疑問も感じないのだろうか。

「そ……そうですか」

「ええそうですとも! クララ……美しい響きだ。清楚で、品格に満ち、懐かしくさえある。クララさんとお呼びしてよろしいでしょうか? それともクーちゃん?」

 ……何の疑問も感じていないのだろう。こいつにとって名前などどうでもいいのだ。たとえ彼女がウメと名乗ろうがホザンナと名乗ろうが、きっと同じ歯の浮くような台詞をそのあとに連ねるのだろう。

「ク……クララと」

「クララ! わかりましたクララ。これからはあなたのことをそうお呼びしましょう。それにしても何という偶然だ……。今日こうしてまたあなたにお会いできたのは神の導きたもうた運命のようだ」

「は……はぁ」

「そう、運命。私たちはきっと結ばれる運命なのです。……いや、失敬。これは少し話を急ぎましたね。差し当たってどうでしょう。この再会を確かなものにするために、どこかで一緒にお茶でも」

「わ……私、もう帰ります! 済みません、失礼します!」

 クララはDJの手を振り払いベンチから立ちあがった。そのまま走り出しかけて、あのときそうしたように一度だけこちらを振り返った。

「それではまた。今日はお話できて嬉しかったです」

 俺に向かい笑顔でそう言って、クララは小走りに行ってしまった。

「あーあ、行っちまった。……何か機嫌損ねるようなことしたかな、おれ」

「あほか。おまえは」

「ん? どういうことだ?」

 あまりのばからしさに返事を返す気にもならなかった。DJは俺の隣、さっきまでクララが座っていた場所に腰をおろした。そして真剣な目でじっと俺を見つめてきた。

「なあハイジ、一つ深刻な質問があるんだ」

「……何だ?」

「どうやったらそんなに女にもてるんだ?」

「もてる? 誰が?」

「おまえに決まってるだろ」

「あのな……。俺のどこをどう見たらそんな台詞が出てくるんだ?」

「そうか、おまえ自覚ないのな」

 自覚いかんの問題ではなく、確実にDJの事実誤認だった。若干一名、あからさまな好意を向けてくれる女がいることにはいるが、彼女はそもそもケースが特殊だから参考にはならない。それ以外に思いあたる節はこれといってない。第一、もしDJの言葉が真実だとしたら、なぜ夏を迎えようとするこの時期に、俺の隣には恋人の一人もいないのだろう。

「俺がもてるもてないは別にして、さっきのあれはどうかと思うぞ、正直」

「どこらへんがまずかった?」

「最初から最後まで」

「マジか! しかしあれは、キリコ先生から受けたアドバイスをもとに、必死で編みだしたアプローチ方法なんだが」

「……どんなアドバイスを受けたんだ?」

「最初はとにかく徹底的に誉めろ、と。名前でも容姿でも何でもいいから」

「それ自体はあながち間違いでもない。が、さっきのは駄目だ。キザすぎる」

「それもキリコ先生に言われたことだ! 口説くときの文句は少しくらいキザな方がいい、と」

「……いや、それも別に間違ってないから。というか、どう考えても『少し』じゃないだろ、さっきのは」

「ああ! おれはあの女狐に担がれたのか! 畜生め覚えてやがれ、今度会ったときには!」

「聞けよな……人の話」

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