縁日の賑わいの裏で


 ――目の前の光景が信じられなかった。今、自分の目に映っているそれは、あのときの芝居小屋だった。三年前の夏にふらりと迷いこみ、それからの俺の演劇観を決定的に変えるきっかけとなった舞台を観た、その場所だった。

 ……どこをどう歩いて、今またこの芝居小屋にたどりついたのかわからなかった。何もかもあのときと同じだった。肌にじっとりとまとわりつく熱を孕んだ風も、その熱に浮かされたように芝居小屋の扉を開けようとする俺も。

 夢を見ているのだろうかと思った。そうとしか考えられなかった。……それでも俺は扉に手をかけ、音を立てないように開いて芝居小屋の中に入った。

「――だから! これはこの自動販売機で買ったものだって、そう言ってるじゃないですか」

「そんな理屈は通りません。不燃ゴミを出す日はちゃんと決まってるんです」

「それは知ってますよ。……空き缶は不燃ゴミじゃなくて資源ゴミですけどね」

「知っててこんなおいたをなさるんですか? まったく最近のお若い方ときたら……」

「たかが空き缶ふたつじゃないですか! それにさっきから何度も言ってるように、これはこの自動販売機で買ったものなんですよ!」

 ……それはあの日の舞台だった。舞台に立っているのは三年前の通り小柄な男と――ここで初めて出会ったキリコさんだった。俺は夢を見ているのだろうかと再び思った。……夢でも構わないと思った。俺は後ろ手に扉を閉め、あのときと同じようにがらがらの、箱馬を並べただけの座席に腰をおろした。

「まったく、ああ言えばこう言う。……いいですか? あなたは一人で生きていると思っているのかも知れません。この都会の砂漠のなかを、一匹でもたくましく旅する駱駝のように」

「何を言ってるんですか。僕は一度だってそんな……」

「でも! 本当はそうじゃないんです。見えないところで助け合って生きているんです。そうでしょう、違いますか?」

「それは……そうかも知れない」

「そう。あなたもその助け合いの輪の中にいるんです。そしてその輪には定められた決まりというものがあるんです。わかりますか? ゴミの日を守るというのも、その決まりの一つなんです」

「……いいからもうこの缶を捨てさせてくれよ」

 俺はこの舞台を覚えている。自動販売機横のゴミ箱に空き缶を捨てようとする青年と、それをとがめる婦人。すべてはそこから始まる。ゴミの日を守れという婦人の主張と、この自動販売機で買ったのだから捨ててもいいという青年の主張は真っ向から対立し、不毛な議論は次第に白熱していく。

 そしてそこへ、空き缶をいっぱいに詰めたビニール袋を荷台にくくりつけた自転車に乗って、薄汚い身なりの男が登場する。これも忘れえぬ面影――隊長扮する浮浪者だ。

「いやはや、参りましたな。これはお兄さんの言っていることが正しい」

「まっ! ならあなたは非を認めるのですか!? そうやって空き缶を集めることが喜ばれる行為ではないと!」

「認めざるをえないでしょうなあ。行政が集めることになっているものを勝手に持っていくんです。それに、中には処理場に出向いて集める人までいる。これはどう考えても喜ばれる行為ではない」

「ああ、僕はそんなことはどうだっていいんです。……ねえおじさん、どうせならこの缶も持って行ってはくれませんか?」

「ええ、ありがたくいただきますとも」

「いけません! そちらの話し合いはまだ片がついていないでしょう!」

 早く立ち去ってほしいがために浮浪者の行為を黙認する婦人と、その矛盾に憤懣やるかたない青年。空き缶の処理を間に挟んでの三つ巴の応酬。……だがやがて会話は空き缶から離れ、政治、経済、文化、あらゆるものを巻きこんだ舌戦へと展開してゆく。

「でも、それは身勝手というものでしょう。僕たちにとって労働は義務じゃないですか」

「いやいや、それは一面的な見方というものです。労働が義務というのは、たしかに憲法において定められておりますが、それはあくまで建前であって、法的な拘束力は何ら存在しないのです」

「それは……そうかも知れませんけど」

「善悪は緯度の問題などと申しますが、一つ海を渡れば就労に服さない者など沢山おります。さらに申しあげれば、歴史を紐解いてごらんなさい。近世以前の価値観では、労働がこれすなわち悪とみなされることさえ――」

「いい加減お若い方をたぶらかすのはおやめなさい! 人は働いてお金を稼ぐものです! それができないのは自らの無価値を声高に叫んでいるのと同じです!」

「おや? ではあなたはどんなお仕事を」

「主婦をしております」

「はは。では私と同じく無価値を声高に叫んでいるわけですな」

「失礼な!」

 青年は公正で一般的な考え方をするも常にやりこめられ、婦人は論理の皮をかぶりながら極めて感情的な考えを並べ立て、浮浪者は悟りに達したようなことばかり言いながら何の責任も負おうとしない。それは世間の縮図であり、今もこの町のどこかで交わされていてもおかしくないやりとりだった。風刺と滑稽に力点を置いた、今こうして再び見ても興味深い舞台だった。

「大切なのは物事を俯瞰する目です。たしかに環境問題に血道をあげるのもいいでしょう。ですが考えてもごらんなさい。我々は広大な宇宙に浮かぶ惑星に暮らし、馴染み深い一つの恒星のまわりをぐるぐるまわっております。その恒星は遠い未来――だが確実にそこにある未来に膨張を始め、やがて我々の星を焼き尽くすのです。それを思えば我々はそう、ゴミ収集用のポリ袋に生ゴミとともに閉じこめられた蠅の群と同じです。その中には腐乱した食物が潤沢にあります。蠅たちはそれを食し、交尾をして増えます。けれどもその蠅たちは、遠からず灼熱の業火に焼き尽くされる運命なのです。蠅たちにできることはなんでしょう? 答えは一つ、どうにかしてポリ袋を食い破ることです。もちろん蠅にはその能力がない。だからそこに進化が必要なのです。我々にとって必要なのは進化であり、そうして見れば環境問題に血道をあげることは、自己満足にすらならない無駄の極みということになります」

 ……今見ても興味深い舞台には違いなかった。だが今の俺にはわかる。これは一時期もてはやされた不条理劇の流れを汲むものだった。このときの『ヒステリカ』はまだ即興劇に移行していない。キリコさん自身がそう言っていた。だからこの舞台は今となっては――そして三年前において既に時代遅れだった過去の遺産にあやかったもので、小劇場系の劇団が好む、独創と名づけられた翻案に過ぎない。それ以上でも、それ以下でもない。

 ……けれども三年前の俺は違うことを思った。果てしない舌戦の中に紡がれていく不条理な物語。数日前に跳ねた自分たちの舞台と似ているようで、それはどこか違っていた。そこには何かがあった。この芝居小屋にたどりつくまで、黄昏の町をさまよいながら自分たちに足りないと感じた、その何かがあった。

「僕にはわからない。あなたは何を苛立っているんだ!? 綺麗な服を着て、指に沢山の宝石をつけて! 朝から晩まで家で優雅に過ごすことのできるあなたにとって、いったい何が気に入らないんだ!?」

「わかるものですか! あたしはこの町に数限りない籠の鳥の一羽。籠の口は開いていて、その気があれば逃げることさえできるからよけい始末に負えない! あたしはいっそ奴隷にでもなりたいのです! 醜く太った男に毎夜毎夜弄ばれる、性的な奴隷にでもなりたいのです!」

「なればいい。あなたがそう望むのなら誰にも止める権利などありません」

「馬鹿なことを言わないで! そんなことできるものですか!」

「あなたが言うことは何もかも矛盾している! そしてそれに気づかないでいる! いや気づかないふりをしている! 何て羨ましい話だ! おじさんもだ! 二人とも何て素直に生きているんだ! ああそうだ! 羨ましいんだ! 僕にはあなたたちが羨ましくてならない!」

 加速する会話のうちに物語はカタストロフィを迎える。ヒステリーにかられた婦人が浮浪者の首を絞め、その婦人の頭を青年が鉄パイプで殴って殺す。浮浪者も既に死んでいる。青年は空き缶をごみ箱に捨てようとし、やはりそうするのを止めて、二つの空き缶を両手に持って二人の死体をそのままに退場する。緞帳が降りるその瞬間までを、俺ははっきりと覚えている。

 ――あのとき俺は、この舞台に理想を見た。この不条理な世界に入りこみたいとさえ思った。それから一年の間に何をなすべきかわかった気さえした。それは簡単な言葉にできた。一つの役を最後まで演じきることだった。一つの役を最後まで演じきることのできる舞台を創ることだった。縁日の賑わいの裏で人知れず打たれていた舞台。俺はそれを、偶然に迷いこんだ現世と隔世の狭間だと思った。――すべてはここから始まった。そして俺はまたここへ戻ってきた。

 照明が落ちる。カーテンコールがおこる。熱気のこもる暗闇の中、俺は三年前の自分と一つになって、指の骨に痛みが走るほど激しく拍手を打ち鳴らしていた――



               □         □         □



 夜の公園だった。気がつけば俺は夜の公園に一人、薄汚れた街灯のもとブランコに腰かけていた。舞台などどこにもなかった。うらぶれた芝居小屋も細い裏通りも、賑やかな縁日の人盛りもなかった。

 祭囃子はもう聞こえなかった。代わりに夜蝉の低い鳴き声が、どこか近くからきれぎれに聞こえた。一頻り鳴いては休み、休んでは鳴く気怠げな声。額から首筋に伝う汗をそのままに、呆然と宵闇の公園を眺めながら、俺は耳に届くその声を、ただ虚ろに聞き続けていた。

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