リハーサル


 心配は杞憂だった。演技が始まってすぐ俺はそう思った。

 入りは盗人が博士の手紙を盗み出す場面――盗人と博士の掛け合いからで、俺は取り決め通り舞台監督としてそれを客席から眺めた。流動的なヒステリカの舞台にあって、この最初の場面だけは固定されている。その重要な場面を、二人は気合いの乗った演技でこなしていた。

 ……舞台上に踊る二人を眺めながら、何かと気を揉んで悲観的になっていた自分を情けなく感じた。そう――こうでなくてはいけないのだ。たとえどんな不安や葛藤を抱えこんでいても、額を指で弾かれた瞬間にそれを忘れ役に入りきる、それが俺たちヒステリカの信条なのだ。……改めてそれを二人に教えられた思いだった。

 舞台では盗人が退き、博士が呪いのこもった独白を始めた。アイネが階段を降りてくる入れ替わりに俺は逆の階段をのぼる。そして下手の袖に立ち、親指にかけた人差し指に精一杯の力をこめ、秘密裏に博士に呼ばれた兵隊になるために自分の額を指で弾いた――

 中盤までの内容はほとんど非の打ち所のないものだった。幕開から上々だった二人の演技は進行とともにその切れを増していくようで、引っ張られる形で俺もいつになくいい演技ができた。このままずっとこの充実した舞台を続けていきたいとさえ思った。……そんな俺の心に不安が舞い戻ってきたのは、舞台も終盤に差しかかろうとするところだった。

「――あなたは間違ってる。あなたの役目はなに? この町に住む人々を守ることじゃないの? ……わたしはすべて知っている。あの女がしようとしていることがどんなに邪悪で薄汚いことか。あなたはそれでもあの女の言うことを聞くの? ……それがこの町に、取り返しのつかない厄災をもたらすことだったとしても?」

 ――発端は盗人が手紙に書かれた内容を読んだことだった。そこに書かれていたことが世を捨てた盗人にとっても無視できない深刻な内容だったという筋立てで、手紙をしろに金を求めるのではなく、その手紙をしかるべき場所に持ちこもうとする盗人を博士が阻止しようとする展開になった。

 これは今までにない展開だった。盗人が手紙を読むことは何度もあったが、その内容が取り沙汰されたことは一度もなかった。本来は避けるべき、純粋な意味での即興が求められる展開。……けれども問題はそんなところにあるのではなかった。

「貴官は忘れてはならないことを忘れている。兵卒は考えてはならない。それが軍隊における原理だったのではないか? 戦場で兵卒が考え始めればどういうことになるか、貴官にもよくわかるはずだ。……だが私はあえて上官としてではなく一公人として貴官に頼みたい。ことは緊急を要する。これは広く国家の消長にかかわる重要な命令なのだ」

 ……問題は博士と盗人があからさまに衝突する流れになったことだ。普段ならばまだしも今日の舞台においてその流れはかなり危険だった。俺の目には二人――とりわけアイネの演技の裏に、何か別の情念のようなものが見えてならなかった。

 私情を演技にもちこむのは何より慎むべきことで、即興劇ではさらにその傾向が強い。そういう演技は決まって加速し、当人にとっていい演技のように思えてしまうだけに危険なのだ。口を酸っぱくしてそれを俺に教えてくれたのはキリコさんだった。アイネもそのあたりは充分よく理解しているはずだ。……にも関わらずこの二人は、その一番してはならないことに足を踏み入れようとしている。

「……そう言えばこんな話を聞いたことがある。先の大戦のおり、さる国の元首がその国の町に大規模な爆撃が行われるという通信を傍受しながら、通信を傍受しえたという事実を隠すため援軍を送らず、住人に避難を勧告することもせず見殺しにしたという。結果、元首の戦略は功を奏し、その国は戦争に勝利した。……では業火に焼き尽くされ、惨たらしく死んでいった町の人間たちは、どこへ行ったのか? 俺はいったいこの先、どうすればいいのか――」

 兵隊としての俺は盗人から手紙の話を聞き、その真剣さに打たれて博士のもとへ談判に戻った。だがそこでも説得されると、再び盗人を捕らえる側にまわるという蝙蝠のようなことをしていた。まるきり道化と言っていい。――けれども本来の道化である愚者がおらず、他の二人にその気がない以上、兵隊である俺がその役割を引き受けることは間違っていない。

 道化を演じながら俺は、冷めきった目で舞台を眺め続けた。もし二人のうちどちらかの演技が目に見えて滑ったとき、控えに入る前に心に刻んだ最後まで通すという誓いに背いてでも駄目を出すつもりでいた。……それでも演技は滑らなかった。二人はぎりぎりのところで、博士と盗人の役に踏みとどまっていた。

 物語はいよいよ佳境に入った。博士は正式に軍隊の出動を要請し、その中で盗人のとった行動はすべて揉み消された。勝利を確信する博士に、盗人はまたも手紙と引き替えに最後の対決を挑み、どう考えても割に合わないその対決に博士は応じた。その場に潜んで盗人を狙撃する、卑劣な密命を兵隊としての俺に与えて――

「……今さら逃げきれないことなどわかってる。ここでおまえに何を言おうと、もう手遅れだってことも」

「ならば何のために私をこんな場所まで呼び出した? 約束は守ったのだ、さあ手紙を返してくれ」

「あれはもう焼き捨てた」

「……何?」

「もういらなくなったから、ここへ来る前に焼き捨てた」

 盗人はそう言って銃を持つ手をあげる。博士は狼狽しつつも、そこにはいない兵隊としての俺をうながすような仕草をする。――だが俺は撃たない。既に額を弾いて兵隊の役に入ったあとも、俺は袖から出られない。この先どちらの側に立ちどういう決着をつけるべきか……役者としてではなく兵隊としての俺が、それを決めかねている。

「……何をしている。早く撃て! 撃たないか!」

「言われなくても撃つ! おまえを撃ってわたしなりのけじめにする! どうしてそう逃げる! 自分で撃てと言ったんだ、逃げるな!」

 遂に博士は外聞もなく俺に狙撃を命じ、盗人の銃口を避けて逃げ惑う。盗人はそのあとを追い、もう何発もの銃弾を放っている。銃声の効果の確認はない。けれども盗人が手にしたプラスチックの銃のトリガーを引き、その度に響く気の抜けたガスの音が、俺の耳にはまるで本当の銃声のように聞こえた。

「さあ鬼ごっこはこれで終わり。わたしはこれまで多くの物を盗んできた。けれどたった一つ、人の命だけは盗まなかった。それを今はじめて盗む!」

 そこに至ってようやく俺は舞台に進み出た。驚愕の目で俺を見つめる盗人の持つ銃の先は、それでも博士を向いたまま動かない。俺は自分の銃を抜いてそれを盗人に向ける。それでも彼女の銃は博士から離れない。

「……銃を向ける先、間違ってると思うけど」

「……」

「あなたはこの女を止めに行ったんじゃないの?」

「いいから銃をおろせ、話はあとだ」

「うまく言いくるめられたわけ、情けない男。……それとも色香に惑わされでもしたの?」

 ――露骨な言い様に鳥肌が立つ思いがした。あるいは舞台監督としてならこの時点で駄目を出していたかも知れない。けれども俺は必死になって舞台の外の自分を追いやった。こいつは今、あくまで盗人としてこの台詞を吐いている。そして俺はどう決着をつけるべきかもわからないまま舞台に躍り出た、あくまで道化としての兵隊なのだ。

「国家の大事に関わることについて、盗人風情がどうこう言うのを信じた俺が間違いだった」

「それはあなたが考えたこと? それともこの女の言葉を繰り返してるだけ?」

「そんなことはどうでもいい。……いいから早くその銃をおろせ」

「撃ちたいなら、撃てば? わたしにはもう何もない。あとはこの女を撃ち殺して死ぬだけ。そうすればあの手紙に書かれたことも……」

「――君は嘘を言っている」

 そこではじめて、銃口をつきつけられたままの博士が言葉を発した。そして続けざまにとんでもない台詞を口にした。

「君はその兵隊に特別な感情を抱いているのだろう」

「何を……言ってる」

「どうもおかしいと思っていたが、そういうことか」

「何を言ってる! すぐにその口を閉じろ!」

 俺はそこで落ちた。真っ白な塩の柱になったと言ってもいい。……展開はまさに俺の恐れていた通りのものになった。銃を盗人に向けた棒立ちの姿勢で、演技を続けることも舞台を降りることもできず、文字通り立ち往生した。

BACK