リムジンにて


「仕切りあげた方がいいですか?」

「いや、このままで結構です」

 朝食をとり終えたあと、ろくに食休みもせずに俺は暇乞いをした。大学へ行くなら一緒にというペーターの希望を、いったん家に帰るという口実でやんわりと拒絶した。アイネに関しては嘘を言ってしまったが、説明しづらいいわくがあって朝練に出られなかったのだということをキリコさんは納得してくれた。だがもし、二人仲良く登構する姿を見られでもしたら、またややこしい話になるのは目に見えている。

「お家へお送りすればよろしいんでしたっけ?」

「はい。道わかりますか?」

「わかりますよ。あそこならもう目を瞑ってもいけます。あ、心配いりませんよ。本当にそんなことはしませんですから」

 長い廊下を抜けて辿り着いただだっ広い玄関には、帽子を胸に抱えたオハラさんが待っていた。俺は何度か断ったが、結局はリムジンで家まで送ってもらうことになった。玄関を出た前庭には石畳の小道まであって、その先の門にはエツミさんと呼ばれた女性が直立して控えていた。「いってらっしゃいませ」という言葉にうまい反応を返せないまま、黒塗りの外国車のリムジンシートに逃げこんだ。

「ところで、お手の方は大丈夫だった……ですか?」

「え?」

「いえ、今朝お見かけしたらもう何ともないようなんで」

「ひょっとして……昨夜運んでいただいたのは」

「あ、はい。この車で運ばせていただきました」

「そうですか。済みません、迷惑をかけました」

「いえいえ、そんな迷惑だなんてとんでもない。ですが――」

 そこでオハラさんは言いごもった。ふと俺はその理由に気づいた。左手の包帯は朝ペーターの部屋で外してそのままだった。あの現場に来てくれたのなら、オハラさんは血まみれの手を目にしたはずで、そうだとすればまっさらなこの左手に疑問を感じるのは当然だった。

「いや、こいつはその――」

 説明しようと口を開いて、俺も言いごもった。説明できるわけがなかった。けれどもそんな俺を知ってか知らずか、オハラさんは穏やかな声で、「やっぱり何ともなかったんですね」と言った。

「え?」

「昨夜のことですよ。電話を受けて駆けつけたんですが、そこでお嬢様が言ってらしたことがよくわからないことばかりで。手を怪我しただとか何だとか……そんな話なんですが、あたしには気を失ってるあなた様の他には何も」

「……」

「あ、いえ! 何も疑ってるわけじゃないんですよ。ただあたしにはどういうことかわかりかねて。お医者様も首を傾げながら帰っていかれましたし……」

 そこまで聞いて俺はようやく事態が掴めた。オハラさんの目に俺の左手の銃創は見えていなかったのだ。いや、一人オハラさんばかりではない。呼びつけられたかかりつけの医者にもその傷は見えなかった。混乱して泣き喚くペーターの言いつけるままに俺をこの車に乗せるオハラさんと、ありもしない傷をもっともらしく診断する医者の姿がありありと目に浮かんだ。彼らにとって昨夜の事件は、一人の少女の狂言に無理矢理つきあわされたようなものだったに違いない。

「……大丈夫です、心配いりません。本当に迷惑をおかけしました」

「あ、いえいえ、本当にそれはいいんですよ。何もなかったのならそれが一番です」

 オハラさんはそう言ってしわがれた声で笑ったが、俺は恥ずかしさに身の竦む思いだった。深く役に入りこめた素晴らしい出来事とはいえ、それで人に迷惑をかけていてはどうしようもない。俺たちのやっていることは所詮学生演劇に過ぎないのだ。もっと大きな枠組みの中で地に足をつけて生きている人たちにとって、それは体の良い遊びに過ぎないのだ。ハンドルを握る運転手の背中は、そう言って俺を叱っているように見えた。

「……あたしがこんなこと言うのもおかしいですが、こっちこそ御迷惑をおかけしました」

 不意にそう言われて頭をあげた。ルームミラーには前方を注視するオハラさんの細い目が映っていた。

「というより、いつも御迷惑をおかけしています。もう高校の頃からですか。お嬢様があなた様にべったりになられたのは」

「……そのことですか」

「本当に、あたしがこんなこと言うのもおかしいですが、昨夜のようなことがあったからといって、どうかお嬢様をお嫌いにならないでやってください」

「そんな、嫌うだなんて」

「いえ……あなた様なんかはもう充分にわかってらっしゃることでしょうが、お嬢様はその……少しお心が弱いところがあります。昨日みたいなことだって、珍しくもないんじゃないでしょうか」

 そんなことはない――そう言おうとして言えなかった。たしかに昨夜のようなことは初めてだ。今までつきあってきてあんなことは一度も起こらなかった。けれども『発作』の一部だと思えば……ペーターがあの手の常軌を逸した行動に出ることは、決して珍しくはないのだ。

「……あなた様のお陰です」

「え?」

「あなた様にお会いしてから、お嬢様はとても良くなりました。お屋敷であたしどもを困らせることも少なくなりましたし、毎日ちゃんと学校に通って、その話をよくなさるようになりました」

「それは、そういう時期が来たということじゃないですか?」

「いえ……その証拠に去年は酷いものでした。学校にもほとんど行かれなくて、お目こぼしでどうにか卒業させてもらったようなものですし、お屋敷でも……。これで元の黙阿弥かと辛い目で眺めていたところです。……決して、あなた様を責めるわけじゃないんですが」

「……」

 ずきん、と胸が痛んだ。胸が痛いというのはたとえではなく、現実の痛みとして痛いのだと誰かが言っていたが、それは本当だと知った。封を切らずに机の中にしまいこんである幾通もの手紙を思った。自分がどれだけの仕打ちを彼女にしてきたか、それがはっきりとわかった。それなのにあいつは何も言わなかった――違う、言えなかったのだ。

「ですが今年に入ってまた、というわけです。最近はとみに。あたしはもうこんなちっちゃな頃からお嬢様を見て参りましたが、あんなに幸せそうなお顔を見るのは初めてです。あたしはそれが嬉しくて」

 俺は何も言えなかった。ルームミラーに映る運転手の穏やかな眼差しを、ただじっと眺めていた。

「だから……あなた様には感謝しています。お可哀相な方なんです。早くにお母様を亡くされて、それに旦那様は……。無理強いするわけじゃありませんし、あたしにはこんなこと言う権利なんてありません。ですが、もしお嬢様のことを少しでも大切に思ってくださるのなら、一緒にいる間は……どうかあの子のことをよろしくお願いします」

 ――話はそこまでだった。それから小屋につくまでの間、オハラさんとの間には一言もなかった。車が商店街に入ったところで、俺はそこでいいと言って降ろしてもらった。律儀に車を降り、帽子をとって一礼してからオハラさんは帰っていった。最後に一回鳴らしていったクラクションの音がしばらく耳に残った。

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